明日死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ。
- ガンジー -
(インドの弁護士、宗教家、政治指導者 / 1869~1948) Wikipedia
「人生とは何か?」人類が誕生して以来さまざまな哲学者がその答えを探しました。
「そもそも人生に意味はあるのか?」という問いに対してニーチェはこう言っています。
「これこそは、完全にその意味の奥底深くまで理解するだけでも、数世紀を要する問いなのだ。」 と。
問いの意味を理解するだけでも数世紀かかる。
稀代の哲学者がこう言うのですからぼくたちがこの問いの答えを見つけるのは大変困難なことです。
しかし、「人生と何か?」「そもそも人生に意味はあるのか?」という問いはぼくたちの根幹にかかわることです。
一人一人がこの問いと真剣に向き合ってもいいのではないかと思います。
人生とは何か考えた
ぼくは「死」や「生きる意味」についてずっと考えてきました。
それこそ中学生くらいからの習慣です。
自分でも変な中学生だったと思いますが、「死」と「生きる意味」というのは相関関係を持っていて
「死」を考えることが「生きる意味」を考えることになるんだなと子供のころから理解していました。
現在、日本人は娯楽の飽和状態、医療の発展によって「死」というものに鈍感になっています。
誰もが「自分は今日死なない」と考えています。
明日になっても同じく「自分は今日死なない」と考えます。
そのループによって「死」が見える距離にくるまで「死」というものを考えることができません。
毎日「死」について考えて
人生の終わりが「死」であって、生きるということは「死」を目指す過程
なんだと気付きました。
簡単に言えば
人生ってなんだかんだあって最後は死ぬっていうだけのこと
そしてこのなんだかんだの部分をどう生きるかが生きる意味なのだと思います。
人によるかもしれませんが
最後は死ぬと考えると強くなれます。
今起きてる困難も「死」と比べてしまえばどうということはないんです。
「何のために生きるのか」と考えてその意味を正しく理解するのは大変なことです。
この人間にとって本質的な問いに向かい合ってる人の思想は非常に深く、ぼくは大好きです。
多くの人からはめんどくさいやつと思われてそうですが。
何が言いたいかいうと
「何のために生きるのか」
この問いを考えること自体が人間らしさの象徴の気がするのです。
しかし、その問いの答えは容易に得られるものではない。
人生なんだかんだあって最後は死ぬ。
確実な答えとして出せるのはこのことだけです。
人生は何かと考えて感じたこと
結論は非常にシンプルなんです。
いろいろ難しいこと書いてしまいましたが。
「人生なんだかんだあって最後は死ぬ」のだとしたら人生に過度の安定なんて求める必要はありません。
やりたいことやっていいじゃん。だって最後は死ぬんだもん。
やったもん勝ち。行動したもん勝ち。
そして最後笑って死んだもん勝ちです。
「時期がきたら〇〇する」「自信がついたら〇〇する」「落ち着いたら〇〇する」ってセリフよく聞きますよね。
こういう人たちはいつまでも行動せずに時間を浪費していく。
同期会や同窓会を想像してください。
「落ち着いたら集まろう」なんて言ってメンバーが集まった試しがありますか。
そんな話はすぐ風化して結局集まる話自体なくなりますよね。
やりたいことがあったらさっさと行動するべきです。
よく考えて欲しいんです。
安定を手に入れたって不老不死になるわけではありません。
だったら「人生なんだかんだあって最後は死ぬ」
のなんだかんだの部分を自分が誇れる最高の物語にしたくないですか?
お金持ちになって経済的自由、時間的自由を手に入れて
誰に干渉されることなく死ぬまで勉強し続けるのがぼくがぼくの人生で書きたい物語です。
1億円を手にれた後、そこに何が待ってるのかもものすごく興味深い。
さらなる欲か。悟りの境地か。はたまた全財産すってホームレスでもやるのか。
そうやって考えると人生は果てしなくおもしろい。
死ぬまで続けられる最高の遊びです。
ここまでは
不登校⇒ニート⇒公務員⇒ベトナム移住
となかなか破天荒でおもしろい人生かなと思います。
パワハラも経験したし、ストレスで胃潰瘍にもなったし、投資でも大金をシバかれたし
結婚もできてないし、今は一人ぼっちです。
悪い経験もすべては自分の自分のための物語です。
日本で満員電車、意味のない人間関係に消耗している人、本当に時間がもったいないです。
今、あなたが生きたい生き方をしないで必死に守ってるものはなんですか?
もやもやしてる方、ぜひベトナムに来てください。新しい物語を一緒に描きましょう。
でわでわ。